2012年09月08日
吉田松陰と嬉野茶
あー、引っ越し作業をしておったら、
こげな御守があることを発見したぜよ。
これは東京都世田谷区にある、吉田松陰神社でいただいた、「勝守(かちまもり)」ぜよ。
御守の裏側画像はこちら。
最初の御守の表側の画像の「勝」という字は、松陰先生直筆の文字だそうで。
松陰先生のように自分の弱い心に負けないようにとの願いが込められているそうじゃ。
確か初穂料は800円じゃったかのう。
この吉田松陰神社には、二回くらい行ったんじゃが、もう7年くらい前になるじゃろうか。
ああ、そういえば、吉田松陰先生は、若き日に、嬉野に来たことがあったんじゃ。
西暦1850年、21歳のとき、肥前平戸に遊学に来られて、そんときの旅日記である「西遊日記」には、
嬉野には有名なお茶どころであって、新茶のときには、大人数で茶摘みをするという趣旨のことを書き記しており、
当時の国境の関所の「嬉野駅」っちゅうところを通過したことが書いてあるそうじゃの。
あーよくよく調べたら、旧暦、陰暦じゃろうが、嘉永3年(1850)年9月3日に、
嬉野を通過しておるそうじゃ。
ちゅーことは、今から162年前の秋頃に、松陰先生は、嬉野を通ったんじゃのう。
あー、わし的には、9月3日は、横浜から東京を移動しておった日じゃ。
ハハハ、わしは松陰先生のように、歴史に名を残すような人物にはならんと思うが、
この東京に行ったときの日記は、松陰先生にあやかって、「東遊日記」と名付けておこうかのう。
こげな御守があることを発見したぜよ。
これは東京都世田谷区にある、吉田松陰神社でいただいた、「勝守(かちまもり)」ぜよ。
御守の裏側画像はこちら。
最初の御守の表側の画像の「勝」という字は、松陰先生直筆の文字だそうで。
松陰先生のように自分の弱い心に負けないようにとの願いが込められているそうじゃ。
確か初穂料は800円じゃったかのう。
この吉田松陰神社には、二回くらい行ったんじゃが、もう7年くらい前になるじゃろうか。
ああ、そういえば、吉田松陰先生は、若き日に、嬉野に来たことがあったんじゃ。
西暦1850年、21歳のとき、肥前平戸に遊学に来られて、そんときの旅日記である「西遊日記」には、
嬉野には有名なお茶どころであって、新茶のときには、大人数で茶摘みをするという趣旨のことを書き記しており、
当時の国境の関所の「嬉野駅」っちゅうところを通過したことが書いてあるそうじゃの。
あーよくよく調べたら、旧暦、陰暦じゃろうが、嘉永3年(1850)年9月3日に、
嬉野を通過しておるそうじゃ。
ちゅーことは、今から162年前の秋頃に、松陰先生は、嬉野を通ったんじゃのう。
あー、わし的には、9月3日は、横浜から東京を移動しておった日じゃ。
ハハハ、わしは松陰先生のように、歴史に名を残すような人物にはならんと思うが、
この東京に行ったときの日記は、松陰先生にあやかって、「東遊日記」と名付けておこうかのう。
Posted by 藤岡エイタロー at 23:01 | Comments(1) | 大福帳
この記事へのコメント
あっ、まちごうた。
9月3日には、わしは嬉野に戻っておったがよ。
9月3日には、わしは嬉野に戻っておったがよ。
Posted by チャバスキー at 2012年09月08日 23:12